スポンサーリンク

この広告は一定期間(1ヶ月以上)更新のないブログに表示されます。
ブログ記事の情報が古い場合がありますのでご注意下さい。
(ブログオーナーが新しい記事を投稿すると非表示になります。)
  

Posted by at ◆

Boys Will Be Boys Ⅰ

  
  アンドレはいつものように酒場でピアノを演奏しておりました。

  いつもアンドレは良い演奏ができるよう練習もしておりましたし、お祈りもかかさずしておりましたが、残念な事にはその酒場の客ときたら、ワルツの最中に怒鳴り声をあげて喧嘩を始めましたし、やさしい子守唄の途中で大きな笑い声をあげる、といった具合でした。アンドレはそのたびいちいち興醒めして演奏を止めそうになるのでしたが、それでもアンドレは酒場で演奏することが好きでした。アンドレは酒が苦手でしたが、ずらりと並んだ異国の酒瓶を眺めていると、その酒を、どんな国で、どんな人が、どんな風に作って、どんな時に、どんな場所で飲んでいるのか、勝手に想像が膨らんできて、時の経つのを忘れそうになりました。

  いい年をして酒を一口も飲めないアンドレを馬鹿にするものもおりましたが、アンドレは気にとめませんでした。演奏に疲れるとカウンターに座ってミルクを飲みながら、棚に飾ってある酒瓶を飽きる事なく眺めているのでした。それにアンドレは酒場のすべてが好きだったのです。流れ星の軌跡みたいな美しい装飾が施された水晶のワイングラス、恐竜の吐く息みたいな葉巻の匂い、フラノ地のコートの上で溶けていく雪の粒、すれ違う時に女の胸元から香ってくる汗と香水の入り混じった匂い、それらすべてがアンドレをうっとりさせるのでした。

  その晩はブヴァールとペキュシェとが演奏を聴きに来ておりました。ブヴァールもペキュシェも最近知り合ったばかりの楽士でした。アンドレよりも二十は年下で、まだ学校に通っているのでした。本当はまだ酒場には入れない歳でしたが、どうにか忍び込んだようでした。

  アンドレは、村の祭りで彼らの演奏を初めて聴いたのでした。まだ子供なのに、なかなかどうして、ベテランの楽士がやるような難しい曲を演奏しておりました。アンドレも、もうその年の頃には祭りの演奏をしておりましたが、ブヴァールとペキュシェほど難しい曲はできませんでした。

  「たいしたものじゃないか、まだ若いのに」

  アンドレは急に彼らと一緒に演奏がしたくなり、仲間に加わりました。とても風の強い日で、見物人はひとりまたひとりと、コートの襟を立てたり、マフラーを結び直したりしながら家路についたのでしたが、アンドレもブヴァールもペキュシェもしばらく演奏を止めることができませんでした。演奏が終わった頃にはすっかり日も暮れて、見物人は一人も残っておりませんでした。

  「今度、酒場へ演奏を聴きにおいで」

  そう言って、アンドレは紙きれに地図を書いて二人に渡したのでした。


  酒場はいつものように騒がしく、酔っぱらい達の中には誰ひとりピアノの演奏に気をとめる者はおりませんでしたが、プヴァールとペキュシェが聴いていると思うとアンドレはいつもより演奏に集中する事ができました。我ながら良い演奏ができたぞ、と思って客席の彼らに目をやると、ブヴァールとペキュシェに挟まれて、真っ黒い髪をした小さな男の子がアンドレのことをじっと見ていました。

  「この子も楽士の卵かい?」

  アンドレが訊ねると、真っ黒い髪の男の子はしばらく黙ったままじっとアンドレを見つめていましたが、思いついたようにブヴァールとペキュシェに耳打ちをしました。

  「何を演奏するんだい?」

  真っ黒い髪の男の子はまだじっとアンドレを見つめていました。

  「楽器は何だい?」

  真っ黒い髪の男の子は、そのうち小さな声で言いました。

  「ピアノ。」

  まだ子供みたいな高い声でしたが、なにやら芯の強い感じで、アンドレにははっきり聞こえました。真っ黒い髪の男の子は睫の長い大きな瞳でまばたきひとつしない様子で、アンドレから目を離しません。アンドレはしばらく考えていましたが、突然、思いついたように言いました。

  「演奏をきかせてくれないかい?」

  真っ黒い髪の男の子は、しばらく黙ってアンドレをじっと見つめておりましたが、そのうちまた、ブヴァールとペキュシェに耳打ちをして、すっと立ち上がったかと思うと、ピアノの方へ歩み寄り、鍵盤の上にそっと小さな手を置きました。


  


  夏の盛りの星がきれいな夜でした。白銀の恒星はなにもかも凍らせてしまいそうに輝きました。化石の星で恐竜の骨を見つけるために鳴らされる発破の音が、やたらめったら響きわたって、とてもゆかいなリズムを刻みました。天の川は、輝く朝日にゆれるアフリカの河みたいに、素敵に色を変えながら流れました。双子の流れ星が、信じられないくらいのスピードで追いかけっこしながら、暗黒の宇宙を何度も二つに裂きました。酒場は一瞬まったくの静寂に包まれましたが、そのうち、ひとりまたひとり、拍手がおこり、つぎの瞬間には酒場中が拍手につつまれました。まったく酒場の客たちは、突然現れた真っ黒い髪の男の子の演奏に、夢中になってしまったのでした。

  アンドレも、夢中で拍手しておりました。真っ黒い髪の男の子はピアノの前に、ちょこんと座ったまま、拍手に応えもせず、ただ戸惑うように鍵盤をじっとみつめているばかりでした。アンドレは真っ黒い髪の男の子のピアノの音色が、いつも自分が弾いている古くて調律も狂っている安物のピアノから発せられていた事が、まったく信じられないのでした。アンドレは吸い寄せられるようにピアノのもとに行くと、鍵盤をそっと押してみました。いつもとかわらない安物のピアノの音がしました。はっ、と我にかえってあたりを見渡すと、真っ黒い髪の男の子はもう何処にも見あたらないのでした。  

Posted by イチロウ at ◆2011年07月01日20:09