『深海魚』



という名のピアノトリオで活動していました。

自画自賛を承知で言いますが、

とてもいいバンドでした。

それもこれもバンドの要であるベーシストが素晴らしいプレーヤーだったからでした。

吉田正さん

とても素晴らしいベーシスト。

まったく僕のピアノなんかなくても、十分にスイングしていたのです。


吉田さんは明治大学のジャズ研でベースを始められ、

当時から素晴らしいプレイヤーだったそうです。

吉田さんに連れられて、西荻窪の『アケタの店』で行われた、

明治大学のジャズ研の同窓会に特別参加させていただいた時のこと、

店のオーナーでもあり世界的なオカリナ奏者&ピアニストである明田川荘之さんが

『吉田ぁ、はやく俺のベーシストになってくれよぉ、、、』

と、共演された直後におっしゃった。

そのおっしゃり方と周りの同窓生の方々の反応は、

学生時代からアケタさんがベーシストとしての吉田さんを心から信頼しておられて、

ずっとプロになるよう勧めておられたことを想像させるに十分でした。

おそらく一年に一回、同窓会で吉田さんのベースでピアノを弾かれたアケタさんが、

毎年おっしゃる恒例の台詞なのでしょう。


私はそんな吉田さんに『おんぶに抱っこ』されて、好き放題の演奏ができたのでした。

飛騨高山美術館からライブを依頼された時のこと。

夏の夜、ビアガーデンでの演奏だったのですが、

アンコールの曲のアウトロ(後奏)あたりで、ふと、

森山良子さんの『さとうきび畑』のメロディーが浮かんで、

思い切って冒頭のメロディを演奏したら、

3小節目から吉田さんが『さとうきび畑』のベースラインを、

完璧に演奏されたということがあった。

そんな奇跡みたいなことが何度も起こったのです。

吉田さんと演奏することは本当に素晴らしい体験でした。


そんな吉田さんが『脳出血で病院に運ばれた』と連絡があったのは数年前のこと。

ライブのアンコール曲で、

Miles Davisバージョンの『枯葉』を演奏することになった吉田さんは、

その演奏の前から『右手が痺れる』と訴えておられたらしい。

それでもアンコールの曲を演奏することにされた。

あの印象的なイントロでもありアウトロでもある

G Bb D E D   G Bb D E D

のエンディング、最後の一音のDを弾かれた直後、

愛用のウッドベースを抱えたまま、吉田さんは倒れたらしい。


連絡をもらって私はすぐ病院に駆けつけた。

非常灯だけの廊下で、手術が終わるのを待った。

まさかこんなに長い闘病生活になるとは想像だにしていなかった。

吉田さんの右半身には麻痺が残ってしまった。

悪夢のような出来事だった。



以来、僕はジャズを演奏する意欲を失ってしまった。

代わりのベーシストなんて考えられなかった。

ジャズをやめるべきだとすら思っていた。

実際そうするしかなかった。


先日、その吉田さんからメールを頂いて、

古川での演奏の拠点だったフレンチレストラン『ラ・ムサシ』が、

10月いっぱいで閉店するとのこと。

『久しぶりにみんなで集まって食事しませんか?』

と。


あの日以来、こんなメールが来たことは始めてだった。

嬉しかった。


というわけで、昨夜は『深海魚同窓会』がラ・ムサシにて行われました。

私は『深海魚』の専属ボーカリストであった浦田紀子さんを連れて古川へ。

ドラムの茶は深海魚ライブにも毎回来てくれていた、美しい奥さんを連れて。

シェフとも久しぶりの再会。


『深海魚』


シェフは当時の事をホントによく覚えてていてくださって、

その頃、私が作ったポスターを大切に保管していてくださっていた。


『深海魚』


懐かしい話や近況報告で楽しい時間を過ごさせていただいた。

料理も相変わらず、シェフの真面目な人柄が伺われる丁寧な仕事がされていて、大満足。

でも何より嬉しかったのは、

吉田さんが快方に向かっていることが明らかに感じられたことでした。

いつかまた『深海魚』が復活できると確信できたのです。

たぶん、思ったより早く。


吉田さん!

リハビリ頑張って!!


待ってますョ!!!








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