スパルタ教育
フライフィッシングは非常にややこしい釣りである。

まず、毛鉤を自分で作らなければならない。
これはかなり細かい作業で、手先が器用な人でなければ、
相当骨の折れることである。
そしてそれを、狙ったところへ投げ入れるのがまた困難を極める。
想像して欲しい。
糸の先についているのはほんの数グラムの毛鉤である。
その毛鉤がついた糸を数十メートル離れた目的の場所へ
キャストしなければならないのである。
その際利用出来るのは、毛鉤に向かって緩やかに細くなっていく糸自体の重さだけ。
極細で数十メートルの長さの鞭の先端を、狙った場所に落とす感じなのである。
冬の間、私はこの種の事が一番得意そうな友人と、自主練に励んだ。

筆者

ヤス 西田敏行じゃないよ
春になって、田之本先生のスパルタ式の特訓が始まった。
田之本先生が講師に選んだのは田之本先生の教え子でもあるI君。
I君は私の小学校時代の恩師のご子息であった。
高山狭い。
I君の父君I先生は私の小学5.6年の担任の先生であった。
I先生は『優等生』にはあまり関心がない先生だったように思う。
日曜日に生徒の有志を集めて、山へ探検に行くような先生だった。
勉強よりも、山で死なないための知恵のほうが大事、という考えをもっておられるようだった。
その課外授業には勉強が苦手な生徒が多かったから、
I先生のクラスには独特の雰囲気があった。
テストでいい点を取ることと、山で早く歩けることが等価だった珍しい学級だったように思う。
I先生は広島、長崎の被爆者の写真を生徒に見せることでも有名で、
戦時中、食べるものが無くてカエルを食べた話をするM先生とともに生徒から恐怖されていた。
そのご子息であるIくんは100kgは優にあるだろう巨漢の紳士だった。

I 君。私とI君と一緒に入ったのはここではなく、水位が胸まであるような谷でした。
私は彼と一緒に川上川の支流に入った。
流れは見た目よりもずっと急で、じっと立っているのも困難なくらいだった。
そんな流れを巨漢のI君は平気な様子で釣り上がって行く。
私は小学校の時、課外授業で、汗ビッショリになりながら、
必死でI先生の後を追って山道を歩いたことを思い出していた。
魚の活性が低く、周りは全然釣れてないような日だったが、
I君は10匹前後のイワナ、アマゴを釣り上げた。
しかもそのほとんどが、予告とともに行われた。
次のキャストで、どんな魚が釣れる、と予告して実際にその通り釣るのである。
『清水さん、あの岩と岩の間のちょっと影になってるところに、投げてみてください。イワナが釣れます』
とI君は私にも何回かチャンスをくれたが、結局狙ったところに毛鉤が届かず、
それが魚を驚かしてしまうのか、結局、私は一匹も釣ることが出来なかった。
その様子を田之本先生が土手の上から満足気に眺めておられたのであるが、
いつの間にか、先生の奥様と、娘さんまでもがギャラリーに加わっていて、
大変に恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
その時の仕返しではないが、
奥様曰く、田之本先生はほとんどの釣行に奥様を同行させるらしく、
しかも自分が釣りをしているところを奥様が『ちゃんと見てないと怒る』のだそうだ。
釣りをされない奥様が、車中にて読書されていると、
田之本先生が釣りを中断して駆け寄ってきて
『今、いいところやったのに、見てなかった』
と怒るらしい。
私は先生の如き愛妻家を他に知らない。
そしてもう一つ。
後日私と田之本先生が夕マヅメの時間を狙って、宮川の下流に釣りに行った時のこと。
辺りが暗くなるとともに、魚が頻繁にライズし始め、
こんなに魚が高活性なら、いくら私でも一匹くらい釣れるだろう、
『このチャンス逃すまじ』と急いで胴長を着用し、釣り支度をしている私に、
『焦るでない』と田之本先生、
カマンベルチーズを半分に割って、私に食すようすすめ、
『これを食べ終わったころが本当の釣り時である』とおっしゃる。
私は半分のカマンベルをほとんど2.3口で口中に投じ、
とてもじれったい気持ちで、ゆっくりと釣り支度をしながら、
ご自身が持参されたカマンベルに舌鼓を打つ先生を待ったのだった。
そして、ようやく支度を終えた先生と宮川へ入ったその瞬間、
嘘のような静けさで、ライズがピタリと止んでしまったのだった。
魚の捕食時間が終わってしまったらしかった。
それでも、暗くなって辺りが見えなくなるまで、私たちは竿を振り続けた。
しかし結局、私も先生も揃ってボウズ(魚が一匹も釣れないこと)だったのである。
この時、偶然にも、二人は鴨だったかなんだったかの擬傷行為を目撃する。
擬傷行為とは、親鳥が、子供を外敵から守るために、
怪我をした振りをして、天敵の注意を自分に向けることである。
帰りの車中で田之本先生は野鳥の擬傷行為を観ることができた幸運を
しきりに語っておられたような気がするが、
私は絶好のタイミングを逃してしまった悔しさで胸がいっぱいで、
ほとんど聞いていなかったように思う。
フライフィッシング
非常にややこしい釣りである。
条件さえあえば、よく釣れる。らしい。
告白しておく。
私はフライフィッシングで魚を釣ったことが、未だない。
Posted by イチロウ at
◆2011年09月11日15:53