前回の同窓会

前回の同窓会

ムーンウォークのタニムラ君から前回の同窓会の写真データをもらったので、またアップしていきますが、

今、ざっと目を通して、めまいがしそうになりました。

やっぱ同窓会って、すごい。

んで、ほとんどのことを忘れている。


前回、割り振られた役で覚えてるのは、当日行われた『ねるとん』の司会、先生方の接待係、あと同窓会の様子をレポートすること。

このレポートは、たしか有斐会から補助金をもらうための条件みたいなもので、当時の有斐会報に掲載されたんだと思う。

自分で書いたはずなのに、読んでてめまいした。



『同窓会』
平成元年度卒業 3年E組幹事 清水一郎


思いがけない一本の電話。
『学年同窓会をやろうと思う。』
去年の梅雨の頃だった。
『お前にE組の幹事をやってもらいたい』
正直なところ、僕は全然乗り気じゃなかった。卒業してからはや16年、その間、学年同窓会はおろか、クラスごとの同窓会すら出席したことがなかったし、ましてや自分が幹事をやるなんて考えたこともなかった。固辞する僕に友人は言った。
『名前だけでいい、クラス幹事は俺が『話せる』奴じゃないと駄目なんだ』
後に我が学年の代表幹事を努める事になる、折敷地敦君からそう告げられた時、とっさに断る理由が浮かばなかった僕は、名前だけの『幹事』を引き受けてしまった。
電話を切って、しばらく、憂鬱な気持ちだった。

同窓会の詳細を決定し実行にうつすため毎月開かれた幹事会。その席でも僕の憂鬱は変わらなかった。なるべく面倒な役目をおしつけられないよう、そればかり考えていた。
僕は名前だけの『幹事』に徹していた。

そんな気持ちが変わったのは、出欠を知らせる葉書が届き始めた頃だった。懐かしい名前から送られてくる葉書。近況の報告があったり、苗字が変わっていたり、幹事の僕にねぎらいの言葉がしたためてあるものもあった。何通も届く日もあれば、届かない日もあった。
郵便受けを開けるのが、その夏の楽しみになった。

宛先人不明で戻ってくる葉書についてはクラス毎に幹事が責任をもって送り届けることになっていた。有斐会名簿はあてにならなかった。卒業アルバムの電話番号を頼りに探したり、仲の良かった友人に尋ねたりした。届いてはいるものの締め切りを過ぎても返事がこない場合、どのように対応するか、出席できない恩師から言葉だけでもいただけないものか、そんな話し合いを夜更けまで続け、秋は過ぎていった。

そんなある日、折敷地君の第一子の予定日が1月2日だと知った。同窓会当日である。ついつい想い出話に夢中になり、脱線しっぱなしの幹事達を、大声で叱咤、激励しながら、『嫁に打ってもらった』というレポート用紙の束を配っている彼の横顔が浮かんだ。

そして12月、最後の幹事会。
幹事が持ち寄った高校時代の写真を、当時の流行歌にのせてスライド風に仕上げたビデオが、有志の手により完成していた。現在の母校の様子も映像に収められていた。なつかしい校舎、グラウンド、舗道。当日までには、出席できない恩師から卒業生に宛てたメッセージを収録したものが完成する予定だという。出席した全員が退屈しないようにと、折敷地君が制作を提案したものだった。

2006年1月2日、同窓会当日。
会場となったホテルのエントランスで僕は出席者の誘導係をしていた。
あいにくの大雪、悪路にもかかわらず、懐かしい同窓生が続々とやって来た。平成元年度卒業生400名の中には、一度も言葉を交わした事がない人もいたが、見覚えのある顔をみつけ次第、声をかけた。ほとんどが16年ぶりに会う人ばかりだった。予定を大幅に遅れて乾杯の発声。総勢200名を超える参加者は荘観の一言につきた。恩師の言葉に耳を傾けるなつかしい顔、笑い声。瞬く間に時は過ぎていった。上映されたビデオは再編集が施してあり、前に観たものよりも長く、そしてより良いものに変わっていた。
『お疲れさん』
折敷地君がビールを注ぎにやってきて僕の隣に座った。すでに相当酔っている様子だった。スクリーンに懐かしい言葉が写った。
『切磋琢磨 確乎不抜』
僕は彼の肩越しにそれを眺めた。

全員による校歌斉唱で初めての同窓会は幕を閉じた。出席者は一様に名残惜しい様子で、約束の時間までに会場を空けるのも一苦労だった。二次会の参加者は予想をはるかに超え、会場はすし詰め状態だった。幹事の中でも一番苦労の少なかった僕に、みんなが礼を言った。僕は当惑するばかりだった。

明くる日、折敷地代表幹事から幹事全員に宛てた感謝のメールが届いた。僕は今日になっても出席者から電話、メールで感謝の言葉が絶えないことをメールにしたため、幹事として積極的に協力できなかった自分を詫び、最後に感謝の言葉を添えた。それに対する彼の返信を見て、僕は、はっ、とした。

『ありがとう。嫁が陣痛始まりました。』

僕は当日のゴタゴタで彼の子供の予定日の事をすっかり忘れてしまっていたのだった。いつもの彼らしくなく、みんなより先に帰っていった後ろ姿を思い出した。

以下、その後の往復メールそのまま引用

『今日ほど同級生が君に感謝している日はないな。ちゃーんと一日ずらして生まれてくる赤ん坊は、親父似のいい奴に間違いない!(^〇^)』

『さっきオンナの子が無事生まれました。昨日を避けるところがニクイね(^^)v』

僕の同窓会はこうして終わった。我が代表幹事の娘、彼女の名は『成美』と決まった。




、、、やはりまったく忘れている。



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この記事へのコメント
俺も忘れてたけど、今思い出しました。1/2に同窓会やるぞ!と卓也邸で決めた時、嫁をハジメする女性陣が、エーッていう白い目で俺を見たことも・・・

でも、イチロウが前回、あれだけ拒んでおきながら、今回の言いだしっぺであり、幹事長を引きうけ、ブログの立ち上げ,など精力的にやっている。
君ほど変われる人も少ない。
今回はブログで同窓会気分を盛り上げているし、必ず成功するよなー。

何がそうさせたのか?一級上のT先輩、1級下のK2に代表される花岡町トリオとして影響されているのは間違いないらしい。

微力ながら協力させて頂きます。ご指導よろしくお願い致します。
Posted by オッシー at 2011年07月25日 18:36
だーかーらー

花里町!
花岡町じゃないの。
近いけど。

前幹事長、さっそくで悪いけど、俳句待ってます!
Posted by イチロウイチロウ at 2011年07月25日 18:41
もう一つ思い出した

一発目の挨拶で、僕はマイクに向かって低い声で渾身の「麒麟です!」
失笑、ダダ滑り、ブーイング。

その後、タカボー渾身の「どーそーかい、フォー!」
大爆笑!

実力の差を感じた。僕は今のタカボーくらい凹んだ。

大丈夫!君は面白い!

元花岡ファミリーだから。
Posted by オッシー at 2011年07月26日 19:06
以前は、自由人のイチロウは面倒だから、なるべく集団の中に入って役やら何やらで縛られたくなかったんだよね。

でも、私の大好きだったイチロウパパが亡くなってから、とても変わった気がします。会社も家も大黒柱になると、いろんな事から逃げられなくなるからね。だって、花里町青年部に入った時はびっくりしたもん。
えーっ、イチロウ町内会???みたいな・・・

今回、代表幹事本当にやるのかなぁ???
と思っていましたが、やってるからたいしたもんだよね。
っていうか、このブログだけでも楽しみにしてる人もたくさんいるだろうし
感謝してます。

いい仲間を持って、幸せだね。
Posted by うたひめ at 2011年07月27日 16:30
みんなそうやって
おおきくなって
いくんだなあ
Posted by みつを at 2011年07月27日 18:16
 
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