Boys Will Be Boys Ⅱ

イチロウ

2011年07月02日 02:09

 
  ある日、アンドレは祭りで演奏をするために、電気ベースを持って町へ出ました。
  
  緑色の電気ベースは太陽に向けると細かい水晶みたいな光の粒がきらきらと光りましたので、アンドレは大変気に入っておりました。おまけに弦巻きの部分には、真珠の貝殻でできた美しい文字が埋め込まれてあったのです。アンドレはその文字の意味は解りませんでしたが、だからなおさらその文字を眺めるのが好きでした。

  通り沿いに店をかまえた村人は、夕方から急に活気づいて、果物に溶かした砂糖をかけた菓子を作る者、炭に火をおこしてとうもろこしを焼く者、バタと牛乳と小麦粉の焼き菓子をこしらえる者、この時とばかりに見物人目当ての商売を始めるのでした。アンドレはそんな匂いにいちいち足をとめそうになりましたが、楽器の入ったケースを両手に抱えて人混みをかきわけて会場へ急ぎました。

  夜になってもまだ蒸し暑い日でした。




  もうあちこちで演奏が始まっていて、顔見知りの楽士たちが楽しげに楽器の音色を響かせておりました。アンドレは楽器の入ったケースを道ばたに下ろすと、しばらくの間、目をとじて演奏を聴きました。目をとじていてもアンドレには、その電気ベースの音が誰の演奏か判りましたし、このサキソフォンは誰が吹いていて、今夜は調子が良いとか悪いとかが判るのでした。
  
  アンドレは、ほうぼうで演奏している楽団の音が入り混じって、楽器のざわめきみたいに響いてくるのが好きでした。まったく別の楽団のある楽器とある楽器を頭の中で勝手に組み合わせて、おかしな調の音楽を想像していると、まったく愉快な気持ちになるのでした。そんな組み合わせは無限に作りだせて、知らない星の楽士たちの音楽を聴いているようでしたし、その音楽はアンドレが知らないだけで、この宇宙のどこかには必ずあるような気がしていました。
  
  そんな楽器のざわめきの中で、アンドレは今までに聴いた事が無い電気ベースの音色が鳴っているのに気づきました。それは普通の電気ベースの楽士がやるような方法ではなくて、つまり和音の一番低い音を弾くだけではなくて、ちょうどジャズのコントラバスの楽士がやるみたいに、和音の三度や五度や七度や九度やもっと上の音まで弾くやり方で、しかもジャズの楽士のように四分音符を刻み続けるのではなくて、ある時は全音符かと思えば4分音符、8分音符、16分音符、と変化していって、それはもう、それだけで新しい愉快な旋律になっているのでした。
  
  アンドレはその電気ベースの音のする方へ、する方へと歩いていきました。その電気ベースの音にあわせて愉快な歌声が聴こえてきました。今までに聴いた事がない歌声でした。そしてその電気ベースの音と歌声は、ちょうどバッハが右手と左手で会話するみたいなやり方で作った曲みたいに、不思議に心地よく響いてくるのでした。
  
  アンドレの前に現れたのは、電気ベースを抱えて、唄っている小さな女の子でした。桃色の衣を着た小さな女の子は、電気ベースに体がすっぽり隠れてしまうのではないかと思うほどでしたが、電気ベースの指盤の上をアンドレの半分ほどしかないように見える小さな真っ白の指が、信じられないような速さで駆けめぐり、いままでに聴いた事がない旋律を奏でていました。機械仕掛けみたいに正確に無駄なく動く指を見ているだけで、アンドレは心が躍りました。そして驚いた事に小さな女の子は、同時にとても確かな音程で唄っていたのです。
  
  アンドレはピアノを弾きながら唄ったり、ギターを弾きながら唄ったりするのが好きでしたが、電気ベースを弾きながら唄う事はできませんでした。ちょうどバッハの曲が難しいように、電気ベースを弾きながら唄うのはとても難しいからでした。
  
  小さな女の子は、清潔な透きとおった声をしていて、それがまるで、朝露が蓮の葉の上を転がるみたいに自由に、また次の瞬間には、銀のスプーンの滑らかな曲線みたいに正確に、聴いたことのない旋律を響かせるのでした。アンドレは聴衆をかきわけて舞台の一番前まで辿り着こうとしましたが、なかなか前に進む事ができませんでした。一緒に演奏しているのはブヴァールとペキュシェのようでした。そのときアンドレは、はっと気づいて時計を見ました。アンドレが演奏を始める予定の時間まであと少しでした。

  「しまった、また遅刻だ、こんど遅刻したなら、いよいよクビになってしまう」

  アンドレはずっと演奏を聴いていたい気持ちをこらえて、その場所を離れました。

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