N先輩のこと
嘘みたいなさりげなさでTom Waitsの音楽にそっと後ろから抱きすくめられ
思わず涙がこぼれそうになるといった瞬間を何度か体験してしまったために
足繁く通わずにいられないレゲエバー『R』のトイレに
しばらく前からパンクロックバンドのフライヤーが貼ってあって
見るたびに不快感を感じずにいられない不気味なメイクをした
三人の男の写真で構成されたそれが気になってはいたのだけど
紫色の花弁を持つ『L』に由来した名前のそのバンドのボーカリストが
高校の先輩のNさんであることに気付いたのはしばらく経ったある日の事で
そのバーと同じ『R』を頭文字に持つ大通りに面した居酒屋で
初めてNさんと一緒になったとき
Nさんは僕に一瞥もくれず
僕も出演することになっているはずのロックイベントの進行表に
独特の癖のある小さな文字でなにやら書き込むのをやめなかったから
僕は思い切って
『Nさん、はじめまして、』
と切り出してみたのだけどNさんは
『ああ、、、』
といったきり会話が続かず
うろたえながら僕は高校時代の記憶を必死で思い出そうとしたけど
Nさんとはあまり接点がなかったから何も思い出せる事はなくて
何となく寂しげな独特の雰囲気と
うっかりすると殴られそうな気配みたいなものだけが甦ってきて
Nさんのごつごつした大きな手を見つめながら
迂闊に声をかけてしまったことを後悔したのだけど
Nさんの着ている黒いTシャツがニコラス・レイに師事した『JJ』のロードムービーのラストシーンであることや
Ramones,Velvet Underground,Iggy Popといった名前のうちのいくつかが話のきっかけにならないだろうかと思いを廻らしたあと
Nさんをよく知る女性からむかし
『あなたはNによく似てる』
と言われたことをふと思い出してそれを言ってみたら
やっとNさんは僕を見てくれて
もう一杯ビールを注文すると
その女性のことや
最近別れた奥さんのことや
高校時代はバンドやってる人間を軽蔑してたこと
当時の自分に前衛的な音楽や映画を植え付けて去って行った美術のK先生のこと
西海岸でゲイにモテたこと
ビール三杯分の話を僕にして
白いワニ皮の長財布から数枚の紙幣をカウンターに置いて席をたったのだったが
少しよろめきながら歩くNさんの後ろ姿は『JJ』の映画で主人公を演じるミュージシャンみたいだった